His Majesty The King
寒い朝だった。
一人の青年が、何処かの家の門の所に腰掛けている。
とても大きな屋敷である。何処か中世の香りを漂わせているが、割と近代的にも思える。庭には、自然にできたものに手を加えたと思われる滝や、安らぎを得るためのテーブル、ベンチ。それに子供の遊ぶような大きなアスレチック。
そんな大邸宅の前に、青年のみすぼらしいトレーナーにジーンズという姿は、どうにもそぐわなかった。
青年は、真っ赤になった両手に、はぁと息を吹きかけていた。
門が開いた。出てきたのは、黒い髪の女性だった。20代くらいだろうか。割と細身で、東洋人と思われる顔をしている。
青年は人の良さそうなボケッとした顔でニコリと笑い、挨拶した。
「寒いですねぇ。」
女性は少し驚いたようだった。
「当たり前だよ。ずっとここにいたのか? 誰だか知らないけど、家に入りなよ。」
「いいんですか?」
青年は思わぬ顔で立ち上がった。かなりの長身で、女性の方をぐんと見下ろしてしまう。
「なんだ、そのつもりで来たんじゃないのか。この辺に知り合いでもいるのかな」
青年は首を振った。
「とても寒いので、入れて貰えたら有り難いです。」
広間のティーテーブルに青年を座らせ、女性は熱い紅茶を差し出した。女性は、見た目以上に大人びた雰囲気があって、青年が子供のように思えてしまう。落ち着いた行動がそうさせるのだろう。
「ここに来たのに特にわけはなくって。」
「じゃあ観光……? 珍しいね。」
「そうでもないんですけど、どうして観光が珍しいんですか? こんなに自然の豊かな島じゃないですか。」
「あまり普通の人は来たがらないんだ。うまく説明できないけど。……寄りつきにくいんだろうね。でもたまに、惹かれてくる人もいる。私が連れてくることもあるしね……。所で、貴方は何処から来たの?」
「ロシアです。」
「ロシアか、いったいどうして?」
女性の瞳が興味を示した。その青年は、確かにロシアのヤクート人の特徴を持っていた。
「単に国に嫌気がさしただけですよ……、鉱山で働いてたんだけど、環境が最悪でね。何度も抗議したけど聞き入れられなくて、それでこっそり抜け出してきました。」
あっさりと笑みを浮かべて青年は言った。女性は呆れたように息をついた。
「それじゃあ密出国か、大変だったな。一人で? それとも誰かの後ろ盾があったのか?」
「全く一人ですよ。いやぁ、友達を誘っても誰もOKしてくれなくて。」
「そりゃあそうだ。今のロシアじゃ、下手すれば射殺だろ。……全く、運の強い人だな。」
「そうですねぇ。」
「世の中って皮肉なもんだよね。厳しくて辛い人生を送って来た人が決死の覚悟で亡命を試みて、結局射殺されるなんて事があるかと思えば、貴方みたいな気楽な人が簡単に出国できちゃったり……。」
クリスティーヌは何処か遠くを見た。
「すみません……。」
「いや、貴方を責めてるわけじゃないさ。ただ、人生ってそういうものなのかなって。ねえ、あっちじゃ暮らしはどうだった? 政治はどんな感じなんだ?」
すると青年は不思議そうに女性を見た。
「……あの国に興味があるんですか?」
「ああそうだよ。ロシアはすごく変わって来てる。国際社会からどんどんはずれていってるからね。私は外から見たロシアしか知らないんだ。よかったらもっと話を聞かせてくれ。」
「いいですよ。」
「そう言えば、まだ名前を聞いてなかったね。」
「ゲートンです。」
「ゲートンか……私はクリスティーヌ。」
それを聞いた時、青年は不思議そうに彼女を見た。
「何処の国の人ですか? 僕はてっきり日本人かと……。」
「日本人だよ、私は。なんでそうなったのかはもう忘れたけど、今は裏でも表でもこの名前で通ってるんだ。」
「ふうん。」
「家族はいなかったの?」
「えーと、母さんの方は小さい頃に死んで、父さんは最近死にました。二人とも病で。」
「そっか、両方とも……辛かったろう。貴方、年はいくつ?」
「25です。」
クリスティーヌは頷いた。
ロシアは何年も昔に、ソビエト連邦が崩壊してできた。全体的に自由な風潮が高まっていったのだが、そのロシアも今や変わった。
経済の制度を、全く新しいものに変えてしまったのだ。世間では、反抗主義だの、壁社会だの、好きなように呼んでいるが、もともとこの経済政策の理由は、国民の生活をより向上させるという事だった。
「ゲートン、どうせ行くところはないんだろう。気の済むまで何日でもいるといい。泊まれる部屋はたくさんあるから。」
クリスティーヌは言った。
「本当ですか?!……何の気なしに来たのに、そこまでして貰えるとは思わなかった!」
ゲートんは一気に明るくなった。
「貴方は本当に運がいいよ。もし他の場所へ行ってたら、絶対にこんな風にはして貰えなかっただろうから。」
「ありがとうございます。恩にきます。」
とゲートンは頭を下げた。
クリスティーヌは螺旋階段を上がり、二階に行った。
家は予想以上に広かった。廊下のあちこちに小さな広場のようなのがあって、噴水があったり、銅像があったりする。絵画も飾ってある。この家の主人は、美術品に興味があるらしかった。ゲートンには、初めて見るようなものも多かったろう。
似たような部屋が長い廊下にずっと並んでいる。よく見ると、扉に名前の書いたプレートが掛かっている部屋もあった。
「誰の部屋なんですか……?」
「子ども達さ。」
「子供? でも随分たくさんありますよ。」
「うん。さっき言ったろ。家にやってきたり、私が引き取ったり連れてきたりするんだ。」
「すごい。賑やかでいいですねえ。それに、こんなに広い家ならたくさんいても丁度いい位なんでしょうね。」
ゲートンは歩きながら辺りを見回した。
船の舵が付いている扉もある。プレートには、“吏祢”と書いてあった。
他にも、木でできていたり、個性のある扉ばかりだ。
「あ、……子供がこんなにいたら、僕がお邪魔すると迷惑ですね。」
「いや、今は誰もいないよ。皆大人になったし。よく戻ってくる子の部屋は残してあるんだ。」
クリスティーヌは、奥の部屋へゲートンを招き入れた。
ゲートンはベッドに座り、一息ついた。
「こんなに子供がいるのに、皆大人になっちゃったんですか? 失礼ですが、おいくつですか?」
「えーと、たぶん40か50か。よく覚えてないんだ。戸籍を調べれば分かると思うけど。」
ゲートンは不思議そうな顔をした。
「あの、僕は貴方の年齢を聞いてるんですが。」
「私の年齢だよ。」
クリスティーヌは微笑んだ。
「本当に……? だって、どう見ても20代くらい……お世辞じゃないですからね。」
「信じられないか。無理もないが……でも本当だよ。ちょっと若いままなんだ。よく分からないけど。」
「でも……。何だか、分からないことばっかりですねぇ。」
ゲートンは息を吐き出した。
「疲れたなぁ。ようやく落ち着いた気がします。」
「密出国ってやっぱり神経使うでしょう。気分は落ち着いたようだね……、さっきに比べたら大分顔が緩んでる。」
「そうですかぁ?」
「もっと聞いてもいい?……ロシア国民は自国のことを何も知らないって本当?」
「何もって、知ってますよ。僕等だって。」
ゲートンは答えた。
「例えば、貴方の国じゃ高い税金を取るけど、それが何に使われるか知ってる?」
「……考えたこともありませんでした。」
クリスティーヌはその答えに、少々目を丸くした。
「ほとんどが貴族や政府の私腹の肥やしになってるんだ。防衛関係費も多い。……公共事業や、社会保障費はほとんど当てられてない。というか、社会保障自体は存在するのか?」
クリスティーヌは尋ねた。
「保険はあります。どれも民営ですけど。後はありませんよ。」
「年をとって働けなくなった人はどうしてるんだ?」
「家族に食べさせて貰ったり……。まあ、動けないような身体になってしまったら、生きていくのはほぼ不可能ですけど。」
「誰も不思議に思わないのか…反対しないのか?」
沈黙を置いた後、クリスティーヌは一人で頷いた。
「他の国のことは、教えられないんだ、学校では肝心なことは何も教えてくれないから、それが普通だと思いこむ。」
壁社会と呼ばれるのは、そのためだった。外国を受け入れず、国民も海外へは行かせない。生まれた時から自分の国の教えだけを受けてきた子供は、井の中の蛙だ。
ちなみに反抗主義と呼ばれるのは、ロシアが新しい経済を立ち上げてからというもの、周りの国に反抗する態度ばかり取っているからだ。核開発に莫大な費用を注ぎ、国連の条約も無視した。発展途上国への支援などへの、国際貢献もすっかり減った。
あげく、経済政策実施から五年後に、ロシアは国際連合を脱退した。
ゲートンは不思議そうに彼女を見つめた。
「僕が知らなかったことを、他の国の人がこれほど知ってるんですか。」
「そうでもないかも。ロシアのことは謎ばかりだ…私は知ってる方さ。税金の話だって、誰も知らないだろうしな。」
「クリスティーヌさんは知ってますよね。……行政に興味があるんですか。」
「まあね。」
クリスティーヌはゲートンに笑いかけた。だが、次の瞬間、何かに気付いたようにハッと顔を強ばらせた。
「ゲートン、私ちょっと行ってくる。」
クリスティーヌは彼を寝かしつけ、毛布を掛けた。
「どうかしたんですか?」
「待ってて。すぐ戻ってくるからね。」
「はぁ。」
ゲートンは訳が分からないらしく、ただ、出ていくクリスティーヌを見送っていた。
ゲートンは言われた通りにボーっとして横たわっていた。
数分後、バタバタと足音がして、ドアが開いた。クリスティーヌと、白衣を着た東洋人の男性が入ってきた。
「こちらですね?」
男性が尋ねる。一見、堅い印象の持ち主だ。
「そうだよ。……ゲートン、彼は医者で揚(ヨウ)っていうんだ。」
「お医者さんがなんのご用で?」
「陛下に頼まれまして、貴方の診察をしに。」
「はぁ。」
揚は机の上に鞄を置き、道具を取り出して診察を始めた。
最後に揚はゲートンの血を採って、診察を終えた。
「僕、何処か悪かったですか?」
「何とも言えないね。君の血を調べてからだ。結果はすぐに出るだろう。」
揚は道具をしまった。そして、クリスティーヌの方に改まった。
「陛下、知らせてくださってありがとうございます。」
「いいえ。」
ゲートンは二人を交互に見た。
「あの、さっきから思ってたんだけど、クリスティーヌさんのこと、陛下って呼んでませんか?」
すると、揚はゲートンの方を見た。
「それが何か、陛下は陛下でしょう。」
「揚、まだ彼に言ってなかった。」
クリスティーヌは笑いながら言った。
「貴方は何者なんでしょう?」
「His Majesty the
King、この国の国王陛下ですよ。」
揚は誇らしげに言った。
「国王?!」
ゲートンは素っ頓狂な声を上げた。クリスティーヌは笑いながら頷いた。
「あれ、それじゃあここは日本じゃないんですか? 僕は日本に来たつもりだったんだけど。」
「ちょっと前まではね。独立したばっかりだから地図にものってないし、分からなくても無理はない。」
「出入国管理施設もありませんしね。だからパスポートやビザがなくても入れます。」
揚が付け足した。
「なるほど・・。」
「では、私はこれで。」
揚はそそくさと、部屋を後にする。
「ゲートン、驚いたかい?」
「ええ。……あの、疑うわけじゃないけど、本当に国王なんですか?」
「まあね。そんな感じだ。小さいけど、取りあえず一国の統治者だよ。」
「でも、うーん。この国のこともよく分からないし……。人口は何人くらい?」
「数人だよ。私と、揚と、事務員達。これから増える予定だけど。」
ゲートンは自分が納得できたのかできてないのか、はっきりとはさせなかった。
「……クリスティーヌさんは、何だか違うと思ってました。貴方が国を作るって言うなら、いいと思いますね。」
ゲートンは相変わらず気楽な顔で微笑みかけた。
「ありがと。」
クリスティーヌは、少し考え込んだ。
そして話し始めた。
「私は、全く新しい国を作りたかったんだ。私の思った通り、私の決めるやり方でね。自由で、束縛されない。ストレスの感じないような国を。」
「でも、法律で規制したりするでしょう?」
「最低限ね。日本みたいな中途半端な国にはしたくないから。」
クリスティーヌは寂しげな笑いを浮かべた。
クリスティーヌは椅子から立ち上がり、ゲートンに手を差し伸べた。
「揚の検査が終わるまで、散歩でもしてこないか? 外でも。」
「ええ。是非。」
ゲートンは頷いて、立ち上がった。クリスティーヌが、寒くないようコートをかけてくれた。
「……揚さんって、どんな人ですか?」
「ただの中国人の医者だよ。優秀だけどね。一人で何でもこなすんだ。」
「あの人、何だかここがぴったりの職場って気がしました。」
「住み込みの医者を募集した時、応募してきたのが彼だけだったんだ。」
「アハハ、最近の人はこんなへんぴな所に住みたいとは思わないんでしょうね。人がいないし、娯楽施設もないみたいだし。」
「まあね。カラオケや映画館くらいはあるよ。ゲームセンターはないけど。でも選ぶ手間が省けたし、私も揚でよかったと思ってる。」
家を出るとすぐに海が見える。二人は海岸に歩み寄った。
島だけあって、海は透き通ったコバルトブルーをしている。海岸のぎりぎりまで来ると、視界が、青くきめ細かい海のさざ波と、水平線で埋まった。
「海と一体になったみたいだ……。地球って、本当に丸いんですね。」
クリスティーヌは頷いた。
「クリスティーヌさんは、日本が嫌いだったんですね。」
「嫌なところもあった。でも、昔ながらの文化とか、風流さは好きだった。今の日本は住みにくい。それは確かだ。」
クリスティーヌは海を見た。
海じゃない……その向こうの、祖国を見てるんだ、とゲートンは感じた。僕等は、似た者同士なんだ。
「映画でも見ないか。」
クリスティーヌはおもむろに尋ねた。
「映画館があるんですよね。」
「うん、家の中にね。」
ゲートンは顔を輝かせた。
「すでに家なんてもんじゃないですよ! 国王が住んでるんですから、宮殿ですか……、もう家が一つの街みたいですね。……こんなの初めて見た。これが普通なんですか? 僕達平民は映画だって、もう何年も見てないし。」
「馬鹿な。特別な人間だから、特別な暮らしをしてるんだ。貴方、私の世界で生きるなら、もっと情報を集めて、知っておくべきだ。映画はいい手段だよ。」
ゲートンは嬉しそうに両手を広げた。
「何が見たい? 大抵のやつは揃ってるはずだけど。」
ゲートンは考え込んだ。
「“母なる我が国の25年”。」
「ああ、あれか。貴方の国……ロシアじゃ公開禁止になったやつだね。」
「はい。前からあれが見たくて……ありますか?」
「もちろんだ。」
「やったあ! ありがとう!」
ゲートンはクリスティーヌに抱きついた。
“母なる我が国の25年”は、ロシアでの新経済の設立から、今に至るまでの25年間の映像や証言を編集した、ドキュメンタリー映画だ。製作はフランス。革命党のやり方を非難し、ロシア国民や労働者の権利が、ないがしろにされていることを訴えたものだ。
映画館は、家の中にあるにしては広かった。特に目に付くのは画面だ。通常の映画館よりも一回りくらい大きい。それに比べて座席の数は割と少なかった。人がいないのだから、当然か。
照明が落ちて、上映開始。
すでに白衣を脱いだ揚(ヨウ)が、自分の部屋から出てきた。揚の部屋は、クリスティーヌの邸宅と廊下で繋がっていて、外からも中からも入れる。
揚の部屋は、そのまま一つの移住区域だ。二階建てで、キッチンやバスルームもある。
揚は真っ直ぐゲートンの部屋へ向かったが、扉を開けて誰もいないと分かると、全く……と小さく呟いた。
「いったい何処に行ったんだ。」
揚はいらつき気味に歩き出しながら、手に持った書類を眺めた。そして残念そうに、首を振った。
それにしても、この広い屋敷内で、たった二人を捜すのはなかなか困難だ。事務員がいるが、おそらく知らないだろう。陛下はいつも煙のように、ゴーストのように、消えては現れる。
携帯電話を鳴らそうかと思った時、ふと窓の外を見ると、反対側の廊下に、映画館の入り口が見えた。
上映中のランプがついている。
「もうっ……。」
揚は早足で、映画館へ向かった。
丁度、クリスティーヌが入り口から出てきた。
「ああ、ごめん。」
「ゲートンは?」
「映画を見てる。」
「全く、連れ出しちゃいけませんよ。まして映画なんて。心臓マヒでも起こしたらどうするんです。」
揚の言葉に、一瞬クリスティーヌはしんとなった。
「じゃあ、やっぱり……。」
「ああ、そうです。陛下のお察しの通りです。」
揚は、映画館の中へ入った。クリスティーヌも続いた。
“何故、貴方はここへ来てこんな事を?”
“……伝えるためです。あなた方のやっていることは、幻に過ぎないんです。何処かで道を間違ってしまったんだ。どんどん道を離れて、幻になってしまっている……。言っていることは、みんな嘘です。もしかしたら、あなた方も騙されているかも知れない。それを教えるためです。”
“どうしてそう思うのですか?”
“僕達はみんな知っています。……一部の政治家や金持ちだけが、知らないんです。”
“何を?”
“この国は、決してよくならない! あなた方が政権を握ってから、国民の多くは苦しんでいます! ロシアには一人の指導者なんかいらない。国民は、皆で一緒に政治を動かしたいんです! 僕達の国……母なる国を返してください!”
“言いたいことは、それだけですか?”
“はい。”
辺りに銃声が響いた。今まで質問を受けていた男は、一瞬けいれんし、地面にばったりと倒れ込んだ。赤い血が広がる。
周囲からは、悲鳴と歓声が入り交じった。
ロシアの最高指導者の暗殺を企てた男が、処刑されたのだ。
ゲートンは真ん中に立ちすくみ、公開処刑を見物に来た群衆達の中に混じっていた。
「ゲートン、君の病気のことだが……。」
唐突に揚が話し始める。
「ああ、揚さん。」
ゲートンは振り返り、映画の中から返ってきた。
「僕の最後の願いごとでも聞きに来たんでしょう。……それなら、もう少し映画をみせてくれませんか?」
揚とクリスティーヌは思わず目を丸くした。
「貴方、知ってたんだ、自分の身体のこと。」
「当然ですよ。クリスティーヌさんが医者を呼びに行った時も、たぶん気付いたんだなぁって思いました。よく僕を見ただけで分かりましたね。」
ゲートンは心底感心した様子で言った。
「揚からいろいろ習ってるからな。」
クリスティーヌは、ぎこちなく椅子に腰掛けた。必死で平静を装っているようにも見えた。
「君も取りあえず座りたまえ。」
と、揚。
「僕、本当は聞きたくなかった。……せっかくここに来て、クリスティーヌさんの国の姿勢を見て、何だか希望が出てきたのに。」
「貴方の病気は……。」
「言わないで下さい。僕、ちゃんと分かってます。痛いほど。だって僕の仲間は、皆同じように死んでいったんだから。……ある時、体の異変に気付きました。覚悟していたから、それほど驚きませんでしたよ。ああ、僕も鉱山の毒を吸っちゃったんだなって。」
「悪ければ、余命は一年も持たないかも知れない事も、知っているんだね。」
揚が尋ねた。
「もちろん。仲間もそんな風に宣告を受けて、そして死んでいきました。僕は宣告を受けるのが怖くて、逃げ出してきたようなものです。」
しかし、ゲートンの顔には、自分の短い命を知った者の特有の表情がなかった。だからクリスティーヌも揚も、彼は自分の病気に、全く気付いてないものと思ったのだ。
その代わり、ゲートンの浮かべる表情には、悩める子羊のような、少し困った憂鬱なものがあった。
「……ゲートン、貴方は生きなきゃ駄目だ。」
クリスティーヌが静かに叫んだ。
「私はね、……私の体は、自分のやるべきことを終えるまでは死ねないって決めた時から、成長しなくなったんだ。」
ゲートンは、視線を真っ直ぐクリスティーヌに向けた。
「私の国が見たくない? きっと、貴方の理想の国だ。」
「見たいです……でも、僕はもう動けない……。クリスティーヌさんとは違いすぎます。」
「そんなことない。戦うのは、貴方自身だ。……貴方は誰よりも勇気があるよ。」
“かつて彼等ロシア国民が理想としたのは、こんな国だったのでしょうか。革命軍の悪質な情報操作によって、知る権利を奪われてしまった民。理想を託して、出来上がったのが今のロシア帝国でした。ロシアを救うのは誰なのでしょうか。誰かが立ち上がるのでしょうか。……それは、ロシア国民と、我々一人一人。一人一人が立ち上がらなければ、理想の国は生まれないのでしょう……そして世界も。もしかすると、これは世界を大きく変える第一歩になるかも知れません。だとすれば、これは世界中が考えなければいけない問題なのではないでしょうか。”
映画は、すでにエンディングが流れていた。
響き渡る人々の声。平和と安定を求めて、道路上で大合唱する人々の歌が、そのままエンディングテーマになっていた。
「僕も学生の頃、このデモ、参加したんです。僕は、あの辺にいるのかな……ああ見て良かったです。」
ゲートンが画面を指差しながら、囁くように呟くのが聞こえた。
「本当だよ。」
クリスティーヌは画面から目を離せなかった。視界いっぱいに飛び込んでくる、子供から老人までの人々。歌声は全身に響き渡る。何度見ても、傑作だと思う。
ゲートンの体が、クリスティーヌの方にそっと傾いた。クリスティーヌは肩で彼を支えた。
彼は、静かに目を閉じた。
数日後のこと。
揚(ヨウ)が部屋から外へ出てきて、クリスティーヌの邸宅の玄関へ入っていった。揚の部屋と邸宅とは、中で繋がっているので、外へ出なくても通れるが、外を通った方が早い場合もある。
手には、分厚い本のような物を抱えていた。
「陛下。」
「どうしたんだ、揚。」
「ああ、ゲートンの所へ行くところですか?」
「うん。貴方も?」
「ええ。ちょっとゲートンにプレゼントを……。」
ノックの音がした。ゲートンはテレビを消した。
揚が入ってきた。続いてクリスティーヌも。
「やあ。」
「どうも。また診察ですか?」
揚の姿を見て、ゲートンは言った。
「いいや、診察ばかりだと君もうんざりするだろう。」
揚はにこやかに言った。そして、例の本を差し出した。
「プレゼントだ。」
「僕に?」
表紙には何も書かれていない。ゲートンは本をパラパラとめくった。中は線が引いてあって、やはり何も書かれていない。
「何も書いてない。日記かな、ノートかな。」
「それに、好きなことを書けばいい。」
「僕の体験? ロシアでのことを?」
「どんなことでもいい。思ったことでも、出来事でもありのままのことを書くんだ。」
「面白そう!」
ゲートンは言った。病みきった病人とは思えない明るさだ。
「そうか。私は失礼する。……陛下、病気が治るまでは、くれぐれもベッドから彼を動かさないように。陛下の悪い癖は知ってますが、心拍数を上げると危険なんですよ。」
クリスティーヌは苦笑いした。揚はパタンとドアを閉め、出ていった。
部屋には、クリスティーヌとゲートンの二人きりになった。
ゲートンは手の中の本をじっと見つめ、しばし考え込んだ。
「僕は……卑怯者なんです。1人で逃げてきたんです。」
ゲートンは首を振った。
「小さい頃、外の世界に憧れていて、両親にこっそり話を聞いていました。本当は話しちゃいけなかったらしいですけど。外はなんていいものだろうと思って、抜け出すことにした……友達は断ったんです。“死ぬ危険を冒してまですることじゃない”と言って。外の世界を知らないからそう思うんだ! でも、僕は彼等に何も言えなかった。外のことを説明できなかった。知らない方が幸せってこともあると……。」
ゲートンは息を吐いた。
そして、クリスティーヌの目を見つめていった。
「……いいえ、そうじゃないんです。結局、自分の身が可愛かっただけなんですよ。友達は今も鉱山で、朝から晩まで奴隷みたいに働いて、それに見合わない安い給料で満足してるんでしょうね!」
「自分を悲観してるのかい?」
「そうです。」
「だが、自分をよく見ることだ、ゲートン。……貴方はとても立派だ。逃げ出したことは臆病なんかじゃない。」
ゲートンは黙り込んだ。
「ロシアの内部では、国民は発言を制限されている。……ありのままを知らせるには貴方のような立場の人間が必要なんじゃないかな。貴方は世界のために、逃げてきたんだ。貴方はいつか、世界を動かす人間になるよ。」
クリスティーヌは言った。
「ありがとう。僕をこの国に住まわせてくれたこと。」
ゲートンは彼女の方を見つめた。
「ここに来たい人がいれば、そうするよ。」
「国籍も、身分証も、住むところも……でも僕は何もお返しできないです。」
「いいんだ。見返りなんか求めない。」
「ただ、尽くしてくれるんですね。まるで母親みたいだ。」
ゲートンはそう言って、恥ずかしそうにうつむいた。
「貴方はすでに私の子供だ。」
クリスティーヌは暖かい眼差しで彼を見つめた。
「貴方がこうしてやって来たのはたぶん、偶然じゃないよ。私は人の縁って信じるんだ。だからって特に大切にするわけでもないけど。」
「ここが、僕の母なる国にできたらいいなと思います……。」
丁度その時、廊下の向こうから声が聞こえてきた。
「母さーん、母さん。」
「おや、息子だ。帰ってきたらしい。」
クリスティーヌは立ち上がった。
「貴方もちょっとだけ歩いてみる?」
「でも、揚さんが……。」
「こういう時はちょっとくらい運動した方がいいって。私の経験だ。」
「はい。」
ゲートンは微笑んだ。クリスティーヌはゲートンを支え、立ち上がらせた。
「母さん、……ここにいたんだ。」
まだ初々しさを残す若い男性が、こちらへやってきた。
「この前会ったばかりだろう、吏祢(リネ)。今日はどうした。」
「寄っただけだよ。……母さんの家、来るたびに広くなってるような気がするな。」
男性の表情はさっきとは変わって、まるで子供のようだ。
「いろいろ建て増さなきゃいけないところもあってさ。」
男性はクリスティーヌよりも背が高かったが、ゲートンよりは低かった。一見クールな面影は、すっかり彼女に甘えている。
血の繋がりのない者同士とは思えない。まるで本当の親子のように、ここまで心を許せるものなのか。
「今忙しいのか?」
「ううん。着替えたらおいで。ゲートンと一緒に食事して、ちょっと遊ぼう。」
男性は、クリスティーヌの肩に掴まっているゲートンを見て、軽く会釈した。
「じゃあ俺、すぐに行くから。後でまたいろいろ探索したい。」
「ああ、いいよ。」
男性は足早に立ち去った。
彼が去った後には、不思議な香りが漂っていた。なんだか気持ちのよい、風のような香り。海の匂いだ。
ゲートンの脳裏には、一面の青が広がっていた。
大洋の匂いだ。ああ、あの舵の付いた部屋の主は、彼だったんだなと、ゲートンはそう思った。
ゲートンは横にいる女性を見下ろした。
「吏祢は、昔から妙に死ぬってことを気にしていてね。……子供の時は、大人になるまで生きられるかどうか分からないなんて事も言ってた。全く、ちょっとは貴方を見習って欲しいよ。」
母さんか……いいかもしれない。僕もそのうち、そう呼ぶことができるかも知れない。僕の母さん。
ゲートンは陽気になって歩き出した。今は前が見える。暗く狭く、前も後ろも分からない坑道の中とは違う。ここは海だ。ここに来れば、抱えている小さな問題なんて、どうでもよくなってしまう。
この国王なら、こんな海のような国を作るんじゃないか。そんな気がした。
完
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