ブリジットの頃—teatime編—

 

 ブリジットは首を傾げて頬杖をついた。あるカフェテラスである。朝から降っていた雨は丁度止んだところで、草木にはまだ水滴が残っている。その水滴に太陽の光が反射して、キラキラと、昼間の星空に浮かんでいるようだ。雨の多いパリの、午後の光景だ。そして、手元にはそれに合わせて、彼女の中の平和を象徴するかのような指輪が優しげに光る。

「ねえブリジット…やっぱり彼のことが心配なんでしょ。」

 オパールの言葉に、ブリジットは唐突に現実に引き戻された。

「リヌって言ったっけ。」

「リネよ、吏祢。……まあどっちでもいいけど。」

「心配なら、どうして行かせたのよ。付いて来てもいいって言ったんでしょう?」

 オパールはブリジットを見据え、目の前のレモンティーに手を伸ばす。

「別に心配なんか……、ただ、離れてると寂しいだけ。」

 ブリジットの言葉に、オパールはやれやれというように首を振った。

 オパールは看護学校からのブリジットの先輩で、親友でもある。気が合うし、しっかりしているので、ブリジットはよく彼女に吏祢の相談を持ちかけたりもした。

 もちろん当の吏祢はそんな事は知らない。自分のことでブリジットが、ひっそり悩んでいたことなど。

 付きあっている恋人との関係で悩むのは男だけで、女が悩むのは付き合う前までだ、とでも思っているのだろう。

「ブルーだから気晴らしに会って欲しい、って言うから来てみれば……本当に憂鬱そうなんだもの。」

「ごめんなさい。理由はよく分からないけど……とにかく貴方の顔が思い浮かんだから。」

「いいのよ。……吏祢のことでも何でも相談してよ。」

「相談って訳じゃないわよ。オパールが転勤してから全然会ってなかったから。」

 友達は大勢いるが、親友と呼べるものは数少ない。こんな風に訳もなく会ってくれて、訳もない話をしてくれるのは、オパールくらいのものだった。

「彼にデートの予定をキャンセルされたこと怒ってるの?」

ブリジットはそうとも違うとも言えず、曖昧に首を傾げた。

「吏祢なら、気にしてそうね。」

「何を?」

「貴方とのデートを断ったことよ。…帰ったら、あまり怒らないであげた方がいいわよ。」

「そんな事分かってる。彼はすごく繊細だから。」

 それが彼の日本人気質を感じさせる部分だった。彼の血は、半分がフランス人、半分は日本人なのである。日本で暮らした歳月も長い。

 だが、彼の性格や気質は、国柄だけではないとブリジットは感じていた。ブリジットのことにデリケートなのは、好意を持ってくれているからだろう。それ以外のことは、意外に大雑把なものである。

 彼の気質は、善くも悪くも特別なものだ。彼にしかないものだ。

「そろそろ島で調査が始まってるんじゃない?」

「そうね。」

 吏祢が出かけたのは、ボランティアの一環で島の探索をする作業だ。難しいことではない。ただ、写真を撮って来さえすればいいのだ。海に囲まれた孤島で、誰の手にも触れられていない原生の自然に触れるーーいかにも、彼が興味を持ちそうなことだ。

 吏祢と、数人の知らない誰かが同行するという。彼等は女性なのだろうか。吏祢は、ブリジットに付いて来てもよいと言った。他の連中に気を使う必要はないからと。

 もし、そんな島で吏祢と二人きりで過ごせるとしたら、それは素晴らしいことだろうと、ブリジットは思う。彼の愛する海と自然の中で、二人きりの暮らし、なんてロマンティックなのだろうと。まあ、少なくとも当分叶うことはない、夢の話だ。

 

「そんなことよりオパール、新しい職場はどうなの?」

「だいぶ慣れたわ。……別れた人と同じ職場にいるのが嫌で逃げ出したけど、よかったわ。」

 オパールは穏やかに微笑んだ。

「いい人が見つかったの?」

「勤め先の医院によく来る薬局の人なの。」

 窓から注ぐ太陽がオパールの頬に反射している。話題が変わると、彼女の表情が一転して女性の顔になった。

「じゃあ、うまく行ってるって訳ね。」

「まあね。」

 レモンティーを口に運びながら、何処か遠くを見るオパールの今後のことを考えてみる。たぶん大抵の人間は、誰かを愛するとき、別れる時のことなど考えないだろう。その後、誰か別の人を愛するなど、思ってもいないだろう。

 オパールもそう。彼女は今までに何度も恋人を作って来た。だからまた新たに人を愛するかも知れないし、もしかするとこれが最後なのかも知れない。

 ただ、前に会ったときに比べて、オパールが随分美しくなったことに驚かされていた。表情が穏やかになり、仕草も落ち着いて優雅さを増している。恋をすると女性は美しくなるというのは、本当だったのだ。

 

「ねぇオパール、私……」

 綺麗になったかしら、と言いかけたとたん、バイブレータを設定していた電話が震えた。

「ちょっと失礼。」

「はいはい。彼かしらね。」

 オパールを背に、トイレへ移動する。少し期待したが、吏祢であるはずはない。島では、携帯電話は圏外になっているはずだ。

「アロー?」

「ブリジット?」

「ええそう…。」

 太い男の声だ。ブリジットは誰の声だったかを考え込んだ。

「ああ、勝浦さん…。」

「今日、誰も当直にいないんだけど、僕一人なんだけど、急に急患が出た。だから困ってるんだけど…。」

 つたないフランス語で彼は言った。ワーキングホリデーで日本からやって来た看護師である。

「急患って? 陸軍は活動してないはずよ。」

 ブリジットはゆっくりと言った。ブリジットも勝浦も、陸軍の看護師として勤務している。同じ時期に軍に採用された、いわゆる同僚である。本当は吏祢のいる海軍で働きたかったが、空きがなく、仕方なく陸軍へ回ってきたのであった。

「年とった男だよ。怪我してるんだ。それで近くに運ばれて来たんだ。医者が一人いるけど、足りないって……。」

 勝浦のおろおろした様子が、電話の向こうから目に見えるようだ。

「そんなにひどいの…。」

「階段から落ちた。あし…脚の骨が折れてるみたいだよ。」

 ブリジットは考え込んだ。今日は土曜日である。せっかく、オパールとの話も盛り上がってきたところである。なにより吏祢のことが気になって、そんな仕事など手につきそうもない。老人が脚を折ったからといって、命に別状がある訳でもないだろう。よくあることで、特別なことではない。

「悪いけど、忙しいの…。もう一人いるでしょう? モリーヌ、彼女ならきっと暇してるわ。彼女に頼んでみて。」

 モリーヌが出られれば、老人は心配ない。

「そっか。君がいれば、心強いけど。」

「ごめんなさい、じゃあね。」

 電話を切り、オパールのいる席へ戻った。罪悪感と、いたたまれなさが残る。自分の仕事を他人に押し付けてしまったのだから。

 

 ともあれ、再びオパールの前に座る。

 Je suis comme je suis,je suis fait comme ca.私は私、こういう人間なのだ。所詮こういう人間なのだと開き直ろう。

「私……、吏祢のどんな所が好きなのかな。」

「そんなの、あたしに聞かれても分からないわ。貴方のことでしょう?」

 オパールの言う通りである。

「最初に見た時、すごく落ち着いてて大人しくて、なんか取っ付きづらそうな人だなって思ったの。話してみて、彼がちょっと変わってて、でもそれがカッコいいって思うようになった……。」

「付き合い始めてからは?」

「本当に変な人だと分かったわ。その上、不器用だし鈍感だし。」

 いやに猫背で、隊列を組む時も一人だけ目立ってしまっていた。そんな様子はとてもかっこいいとは言えない。

「とても無口でシャイ、それに奥手で、恋人も、私が初めてだったようだから……なかなかセックスもしてくれなかった。」

 ブリジットはうつむいた。

「それでも吏祢を愛してるんでしょう? そんな貴方も変よ。」

 オパールは笑った。

「うん…そうなのよね。」

 ブリジットはデザートのパフェを頬張った。オパールもデザートを食べる。

 

 ———職場の仲間数人に、吏祢を恋人だと紹介したことがある。そのとき勝浦にも会った。勝浦は祖国から離れ、全く違う文化の中で寂しい思いもしていたのだろう。故郷の匂いを感じて、喜んで吏祢に近づいていった。日本語で会話もしていた。

 勝浦はブリジットに気がある。吏祢は勝浦と話をしたとき、それに気づいたようだった。

 吏祢と話した翌日、勝浦はブリジットに言った。あのムッシュー、変わった人だね、と。でもブリジットが好きになるんだから、きっといい人なんだろう。そう言った。

 勝浦は気が利くし、元気がある。看護師としても知識があるし、よく働いてくれる。フランス語が流暢に話せれば、”いい男”であることに間違いない。吏祢にそのことを話して聞かせると、ひどく落ち込んだ様子になって、そうか、と言った。

 勿論、”いい男”というのは、世間一般の目から見た話である。ブリジットが訳もなく愛してしまったのは、吏祢の方だ。自分に言い寄ってくれる男を振り切って、愛してくれるかどうかも分からない吏祢をつかみ取りたくなった。

 同じ味のワインは二度と出来ない。吏祢に出会った時の気持ちは、これ! と思えるワインに遭遇した時の気持ちに似ていた。

 

「ブリジット、貴方こうやってる時でも、……吏祢の方を見てるのね。」

 静かにオパールが言った。

 ブリジットは手を止めた。オパールは何事もなかったかのように、手を動かし続ける。ブリジットはふと、自分の左手の薬指の指輪に目を落とした。

「……吏祢が気になるの。やっぱり心配してたんだわ。」

 大きく息を吐き、自分に呆れて首を横に振る。

「やっぱりねぇ。」

 オパールがニヤニヤと笑ってこちらを見た。

 吏祢の誘いを断って、行かなかったのは何故だろう。デートを断られて悔しかったものの、何も言えなかった理由は何なのだろう。すら、他のメンバーに気を使っただけではないような気がする。

「どうして行かなかったの?」

 オパールが問いかけた。

「……たぶん、意地はってたのかな。」

「意地?」

「だって彼、……普段、私のことは全然心配ようとしないの!」

 オパールは頷いた。

「なるほど。貴方のことなんか気にかけてないってわけね…でも男って言うのは」

「違う、違う、そうじゃないの。」

 オパールを遮り、ブリジットは続けた。

「私のこと心配しないのは、私のことを信じてるからだって……! 姿が見えなくても想ってるからだって! どうしても駄目だって思ったら、守りに行くから……って。」

 クサい台詞に聞こえるが、彼の場合はそうではなかった。率直すぎて、そう言った彼の顔は子供っぽく見えた。冗談心など、一欠片も見えなくて、それがかえっておかしくて、その時は思わず笑ってしまった。

 気づけば、顔がすっかり熱くなっていた。オパールは返す言葉がない様子で、うんとかアーとかいう音を発している。

「その言葉を思い返してみたら、私の方が子供っぽく思えてきて、…それで、のこのこ付いていくのがイヤになったの! 子供みたいで。」

「ああ、そう……結局彼は貴方のこと愛してくれてるんじゃないの。」

「そっか……。」

 ブリジットの顔の筋肉が一気に緩んだ。そうはっきりとオパールに言われると、全て解決したような気がする。

「貴方を見てると、昔に比べてすごく生き生きしてきたって思うわ。貴方も今までに恋人がいたけれど、それこそ、吏祢よりもずっといい男だったけど……でも、こんな風じゃなかったわね。」

「どういうこと?」

 ブリジットは身を乗り出して尋ねた。

「すごく、輝いて見えるの…吏祢がただの恋人としてだけじゃなく、貴方の人生までも明るくしてるっていうか。海軍っていうちょっと危険な仕事だからこそそうなるのかな。貴方自身が、すごく充実してるんじゃない?」

「そっかな…そうなら、嬉しい。」

 一息ついて、オパールは言った。

「ブリジットも、今まで何人も恋人作ってきてさ、その度に、その人を永遠に愛せるなんて言ったりしてたけど、分からないものじゃない。貴方にとって吏祢がどれほどの人か分からないけど、大切にしてほしいの。人を愛するってことを。」

 オパールの言葉に、ブリジットは少しドキリとした。つい先ほど、ブリジットが彼女に対して思っていたことをそのまま返されてしまったのだから。

「もちろん、そのつもりよ。」

 ブリジットは微笑んだ。

「彼は他の人と違う気がするの。他の人は、いい男ってだけだった…でも、彼にはもっと別の魅力があるわ。それは付いていけそうにもないけど、付いていきたくなるから。」

 ブリジットが言い終わるか終わらないうちに、電話が鳴った。ブリジットではない、オパールだ。

 とたん、オパールは笑顔をさっと引かせ、ポケットを探った。

「なぁに? 電話?」

「メールみたい…あの人だわ。」

「さっき言ってた、薬局の?」

「そうそう。」

 オパールは右手にさっと携帯電話を掴み、何かしら操作した。その短さからして、返事を打った訳ではないらしい。

 そしてそれを再びポケットに収め、ブリジットの方を向くと、すまなそうに言った。

「悪いけど、もう行くわね。恋人に会いたいの。」

 オパールの表情からは、どれほど彼女が恋人を想っているかが読み取れる。素直に惚気る彼女が、素敵に見え、また嬉しかった。彼女の白い肌の色が、湖に浮かぶ白い鳥と重なった。

「いいわよ、行きなさい。今日は付き合ってくれてありがとう。勘定は私が払っておくから。」

「あらそう、ありがとう。……じゃあ、またね。貴方もどうか幸せにね。」

「ええ、それじゃあ。」

 店を出て行くオパールに手を振る。そのブリジットの指に、また指輪がキラリと光った。

 

 プロポーズって訳じゃない。俺は一生結婚する気はないから。でも、ブリジットが望むんなら、俺は一生側にいるよ。約束する。会えない時も多いけど、こうやって会えた時は、ちゃんと俺たちの気持ちを伝えあおうな。

 それから吏祢は、小さく愛してるよと呟いた。

 吏祢は明日には帰って来るだろう。早く会いたい。会って、肩でも抱いてもらいたいと、素直に思った。

 あの時の吏祢の言葉だけは、はっきりと覚えている。

 思えば、吏祢はワインではなかった。ワインは時が来れば飲まれるが、吏祢の存在は、それこそ永久的なものだ。約束だ。吏祢には、ずっと側にいてもらおう。

 

 

                 完

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